古代中国で貨幣として使われていた宝貝と、「貝」を含む漢字
お金って、誰にとっても身近なものですが、じゃあ、お金って何なの?と、あらためて聞かれれば、はたと困ってしまうもの。
そんなお金についてじっくり考えるのに絶好の博物館がある。場所は、花のお江戸は日本橋のすぐそば、日本銀行分館の中だ。
世界最大の貨幣、ヤップ島のフェイや、豊臣秀吉が鋳造させた天正大判を眺めながら、お金について考えてみませんか。

そもそもお金って何なのか、学校では教えてくれない

う~む、困ったぞ。今回のテーマはずばり「お金」なんだけど、フロアマップを見るとなんだか手強そうだ。でも、それも当然か。だって「お金ってよくわからない」という思いが貨幣博物館に来た動機なんだから。
あらためて考えてみると、お金というモノはとても不思議だ。誰もが必要とするにもかかわらず、お金そのものについて考えることはあまりない。いや、給料のやりくりとかではなくて、お金という存在や意味についてである。
たとえば「あなたにとってお金とは何ですか?」と聞かれたら、すぐに答えられるだろうか。あるいは、日常よく目にする千円札のデザインをどれだけ覚えているだろうか。お店で支払うときは平気なのに、個人間で現金を渡すときにむき出しだとなんとなく気がひけるのはなぜなのか――などなど、考えれば考えるほどお金にまつわる疑問がどんどん湧いてくる。かといって、学校でお金についてきちんと教わった記憶もない。それも不思議といえば不思議だ。
普段から持ち歩いていて、とても大切なものであるはずなのに、正面切って語るのははばかられる微妙な存在。今回はそんなお金のことをもっと知りたくて、貨幣博物館を訪ねてみた次第。

「貨」「財」「貯」…。お金がらみの漢字は貝だらけ

貨幣博物館があるのは花のお江戸は日本橋、日本銀行の一画にある。日本銀行の創立百周年を記念して、1982年に貨幣博物館が設置され、3年後の1985年に開館した。
2015年のリニューアル以降、展示は日本における貨幣の歴史となっているが、ここはまず、貨幣の誕生に触れておこう。
人類が最初に使った貨幣として陳列されているのは矢じり、稲、砂金など。これらは「物品貨幣」と呼ばれ、解説によれば、かなり古くから世界中で自然発生的に使われていたようだ。その特徴は、①誰もが欲しいもので、②価値を表現できるように分割でき、③持ち運びが簡単で保存が可能の3点だという。なるほど。
物品貨幣が生まれた経緯は想像に難くない。そのほうが物々交換よりはるかに便利だ。個人的に興味があるのはいつから使われ始めたかだが、残念ながらはっきりとはわかっていないとのこと。だが興味深いことに、物品貨幣の痕跡は今でもしっかり残っている。
最もメジャーな物品貨幣のひとつに紀元前16世紀から紀元前8世紀の殷・周時代に中国で使われていた宝貝がある。「貨」「財」「貯」「購」「貿」「買」「資」など、お金に関係する漢字に貝のつくものが多いのはそのためだ。西洋に目を向ければ、英語の「サラリー」の語源は「塩」で、かつてローマ帝国の軍人の給料が塩で支給されていたことに由来する。
古代中国で貨幣として使われていた宝貝と、「貝」を含む漢字
これらの物品貨幣のなかでも、特に使い勝手に優れていた素材が金、銀、銅である。必然的に世界中で普及したため、金銀銅貨は物品貨幣から進化した金属貨幣と定義されている。

金属貨幣の源流は世界で2カ所だけ

いよいよ「お金」の登場だ。
ローカルな物品貨幣が各地で自然発生したのに対し、高い鋳造技術が必要とされる金属貨幣の源流は2ヵ所しかない。ひとつは中国で、もうひとつはヨーロッパのトルコ周辺である。
西洋の貨幣と東洋の貨幣を見ると、様式の違いが一目瞭然。昔の西洋貨幣は円形で表面に人間の顔や動物が描かれており、今の欧米のコインと根本的に同じ感じがする。一方、中国では農具や刀をかたどったものに始まり、紀元前3世紀頃になってようやく円形のものが現れるが、真ん中に穴が開いている。
西洋の硬貨の原型は紀元前670年頃に今のトルコにあるリディアで作られたエレクトロン金貨だ。エレクトロンとはギリシャ語で「琥珀」をさし、金と銀の天然合金の色からこう呼ばれるようになった。コイン表面の人間の顔や動物はもちろん権力の象徴であり、鋳造した金属に打刻して作られている。
金属貨幣の登場はよほどの大事件だったらしく、ギリシャの歴史家ヘロドトスと哲学者プラトンがそれぞれ『歴史』と『国家』でエレクトロン金貨について書き残している。それはそうだろう。権力を示すアイコンによって、お金を使うたびに「これはわが国のコインである。わが国は金銀のコインをつくって使えるほどしっかりした強い国なのだ」ということをアピールできる。つまり、貨幣経済を導入すると同時に権力のキャンペーンもできるわけだから、ホントに画期的な政策だったに違いない。
ちなみに余談になるけれど、『国家』(岩波文庫)でリディアが出てくるくだりには、「娘たちがみな身を売り、嫁入りするまで自分の持参金を稼ぐのである。つまりリディアの娘は自分で嫁入仕度をして稼ぐわけである」なんて話もあって、このくだりが売春が世界最古の商売といわれるゆえんとなっている。
そんな西洋に比べると、農具や刀といった物品貨幣の代用品としてスタートした中国貨幣はより実用的だった。中国における金属貨幣の登場は西洋より100年ほど早く、紀元前770年の周王朝時代に農具の鋤の形で作られた「布幣(この「布」は当て字)」と言われている。
布幣や刀幣は形も重さもさまざまで、貨幣の価値は重量によって決まっていた。しかし、それでは不便なため、やがて一定の形と重さにそろえられ、紀元前4世紀の戦国時代中期には持ち運びに便利な丸い「円銭」が普及する。そして、紀元前3世紀に始皇帝が中央に四角い穴の開いた「半両銭」に統一し、以後、中国は約2000年にわたりこの形の硬貨を作り続けた。ご存じのとおり、日本の貨幣の原型となる形式である。

日本の歴史ではいったんお金は消えた!?

「和同開珎」――和銅元年、708年に日本で最初に発行された公式貨幣であることはみな歴史の授業で学んだことだろう(和同開珎以前の貨幣も実は発見されているが、これについてはあとで触れる)。独自の貨幣鋳造はアジアでは中国に次ぎ2番目で、必ず文字が入っていることから単位は「文(もん)」が採用されたとする説がある。
この時期に朝廷が貨幣を発行したのは、唐の進んだ社会制度を取り入れて権力を強化すると同時に、貨幣発行の利益を当て込んだからである。貨幣の製造コストよりも額面のほうが高ければ、発行すればするほど儲かるのは当たり前。しかし、だからといって乱発したら、貨幣の価値が下がるのもまた必然だ。そして、朝廷はら図ずもこの法則を証明することになる。
新しい貨幣の乱発を続けたせいで、時代を追うごとに銅銭の価値は下落し、朝廷はついに987年に貨幣の利用停止を宣言。公式な貨幣が姿を消すことになる。
つまり、世の中からお金がなくなってしまったのだ。
で、このあとどうなったか?
結論から言うと、貨幣を輸入したのだ。
一応、11世紀から約200年間は貨幣がなくてもなんとか済んでいたようだ。経済がそこまで成長していなかったとも言える。ところが、12世紀後半、平安朝末期になって貨幣の需要が高まると、質も信用度も高い中国貨幣の大量輸入が始まり、およそ100年の間に「渡来銭」を基準とした価格体系ができ上がった。
当初は混乱があったものの、13世紀前半には鎌倉幕府が事実上、使用を認可。結局、渡来銭は平安末期から江戸時代初期までの長きにわたり使われることになった。これはある規模以上の経済活動が貨幣なしには成立しない例証だろう。

「太鼓判を押す」の語源となった甲州金

中世から近世のコーナーに移るあたりで展示が急にキラキラし始める。周防大内氏のち毛利氏による「石州銀」や甲斐武田氏の「甲州金」をはじめ、戦国大名が独自に鋳造した「領国貨幣」から、徳川幕府の大判小判、なまこ形をした丁銀まで、金貨銀貨が並んでいた。大判小判という言葉は知っていても、実際に見たのはこれがはじめて。ずらりと勢ぞろいした金貨銀貨のパレードはなんとも壮観だ。
群雄が割拠した戦国時代、各地で金銀貨が鋳造され始めた経緯はこうだ。
戦乱の世になり、軍資金を得る目的で戦国大名は積極的に鉱山開発に乗り出した。土木技術および製錬技術が向上したおかげで、金銀の産出量は一気に増加する。『日本の金銀鉱石〈第三集〉』(日本鉱業会編著)によれば、室町時代以前の産金量と産銀量はそれぞれ30トンと10トンだが、安土桃山時代だけでも225トンと1100トンにのぼると聞けば、いかに急激な増加だったかわかるだろう。同時に楽市楽座などの振興策により商工業が発展し、戦国大名はこぞって金銀貨を発行した。
なかでも制度面で秀でていたのが甲斐武田氏の「甲州金」だ。他国の金銀貨がいちいち重さを量らないといけなかった「秤量貨幣」だったのに対し、甲州金は表示された金額で通用する便利な「計数貨幣」である。単位は両、分、朱、糸目と四進法で下がる体系を採用した。両、分、朱といえば、江戸時代の貨幣制度じゃなかったっけ? その通り。徳川幕府は甲州金の体系を真似たそうだ。
甲斐武田氏が鋳造した甲州金
ちなみに、「金に糸目をつけない」と「太鼓判を押す」という表現は甲州金に由来するという説がある。「糸目」は甲州金の低いほうの単位であり、だとしたら本来は細かい金額は気にしないという意味のはず。そうだったのか! 「太鼓判」は偽造・改変防止のために丸い金貨の周囲につけた甲州金の模様が太鼓の鋲(びょう)のように見えたことによる。他にも諸説あるとはいえ、いずれにしろ甲州金の評価が高くなければこういう話は出てこないだろう。
他に戦国大名といえば、やはり織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に興味が湧くというもの。先にも触れた『貨幣の散歩道』にまさに「信長・秀吉・家康の貨幣」という回がある。少々引用させていただくと、
信長は貨幣こそ鋳造しなかったが、「悪銭の割引通用率を初めて定めるなど、貨幣史上画期的な業績を残し」、「金銀と銭貨の比価を施政者として初めて定めた」意味で、「信長の貨幣政策は金銀銅貨からなる江戸期貨幣制度の先駆けといえよう」。
秀吉の功績は「さまざまな種類の金銀が貨幣として流通しているなかで一定の品位を保証した金銀貨を大量に鋳造し、統一的な貨幣制度への出発点を形成した」こととある。
豊臣秀吉が鋳造を命じた天正長大判
そして、このあと紹介するように、家康は既存のシステムをうまく引き継いで貨幣制度を確立したことから、「金銀貨の鋳造も信長により構想され、秀吉、家康によって開花させられたということができる」と結んでいる。なるほど、天下統一と同じく貨幣制度の統一も信長、秀吉、家康の継投策による勝利だったのだ。
徳川家由来の、菊花紋が美しい分銅金。品位は95%以上でほぼ純金並み

円の誕生とお金の不思議

さて、明治時代以降は展示の雰囲気ががらりと変わる。ひと言で表せば現代的。明治のごく初期の紙幣を除き、お札のデザインは横長の肖像入りだし、硬貨も今風である。その展示が示すとおり、明治以降の貨幣制度の変遷は現在にまっすぐつながっている。
そのなかで主要なイベントは次のとおり。
まずは1871(明治4)年の「円」の誕生だ。「円」という名称にした理由は、諸説あるものの、硬貨をすべて丸くするからという説が最有力とのこと。
第二に中央銀行である日本銀行の設立である。欧州にならって、通貨の安定を図るため、紙幣の発行権限を政府から独立させた。
第三は時代がだいぶ飛んで、1942(昭和17)年の金本位制の廃止、すなわち、管理通貨制度の確立である。貨幣の価値はついにモノから解き放たれて保証され、より柔軟に貨幣の発行量を調整でき、物価の安定をれるようになった。
展示室を出て、出口に通じる階段を下りようとして、なにやらでっかい石が展示してあるのに気がついた。西太平洋のヤップ島で使われた「フェイ」である。大きなものは直径3.6メートルもあったそうだ。
フェイに関しては極めて興味深い話がある。
そもそもフェイは普段の買い物ではなく、冠婚葬祭の贈り物や不動産の売買などに使われたという。これだけ大きな石を運ぶのは大変だ。使うときはフェイの持ち主が変わったことを周囲に伝えるだけだったらしい。
しかも、島一番の金持ちのフェイは誰も見たことがなかった。なぜなら、船で運搬中に海の底に沈んでしまったにもかかわらず、その金持ちの話を島民が信用したため、海底に沈んだ巨石が貨幣として普通に通用した、というのである。
世界最大の貨幣。西太平洋、ヤップ島のフェイ。原料の石灰岩は2000キロ離れたパラオ産
この話は貨幣の本質を突いてはいないだろうか。博物館の最後に見たビデオの解説によれば、貨幣のはたらきは「価値尺度」「支払いの手段」「価値の蓄え」の三つだという。そして、これまで見てきたように、物品貨幣から金属貨幣、金属貨幣との交換が保証された兌換紙幣、その保証がない不換紙幣へというように、それ自体のモノとしての価値を一枚ずつ脱ぎ捨てるように貨幣は進化してきた。預金口座による取り引きや電子マネーなどは預金通貨といわれ、れっきとした貨幣とのこと。
つまり、どんなモノであれ、みんながそれを貨幣と思えば使うことができる。結局のところ貨幣は約束事であり、抽象概念である。シンボルといってもいい。フェイを見ればわかるように、それはスタート地点からずっと変わらない。
貨幣は言葉とよく似ている。そして、言葉に言霊があるように、お金にも金霊というようなものがあるのだろう。和同開珎以前にも日本に貨幣が存在したと先に書いた。それは「無文銀銭」と「富本銭(ふほんせん)」である。かつて、これらは共にまじないに使われる「厭勝銭(えんしょうせん)」だと考えられていた。また、古来、中国でも貨幣にはやはり特別な力が宿るといわれていた。
すなわち、モノから離れて価値をもった瞬間に、貨幣は際限のない力を手に入れたが、同時にいつ力が失われるかわからない不安も背負い込んだのだ。それはシンボルの宿命である。具体的に言えば、貨幣は富の象徴であると同時に破滅へと導く力も含んでいる。だから人は貨幣を求めつつも、恐れるのではないか。
人間がお金に対して抱く特異な感情は、貨幣のそんな根源的な性格によるのかもしれない――などと、貨幣博物館を出たあとに、日本橋の老舗「室町砂場」でキリリと辛口のつゆが利いたもりそばを手繰りながら考えた。このそばがうまいんだな。関西風のお上品なだし巻きではなく、甘くてふわりと柔らかい玉子焼きもお気に入りだ。
そういえば、江戸時代のそばの値段はだいたい1杯16文だったっけ。室町砂場のもりそばが1杯550円。1両は4000文から10000文だから、今のお金に換算すると……う~ん、すぐには計算できないや。そんなことよりこのもりそばをしっかり味わおう。お金は食えないが、もりそばは食える。つまりはそういうことである。
DATA
貨幣博物館
東京都中央区日本橋本石町1-3-1(日本銀行分館内)
☎03・3277・3037
開館時間 9時30分~16時30分
休館日 月曜日、祝日(ただし土曜日、日曜日と重なる場合は開館)、振り替え休日、年末年始
掲載の写真は、リニューアル前の展示を撮影したものです。中国古代の宝貝以外は、展示方法は変わりましたが、現在も展示されています。