年1冊の哲学書を読む習慣が 人生を明るくする
ボストンコンサルティング社長として名を馳せたビジネス界きっての読書家が、どう読書と向き合ってきたか、何を得てきたか、どう活かしてきたかを縦横無尽に語り尽くす。
自分を高める教養と洞察力が身につき、本を武器に一生を楽しむ、トップ1%が実践する『できる人の読書術』を説き明かす。
 哲学書で哲学を学ぶことは重要だが、本を読む習慣がない人が、いきなり難しい哲学書を読もうとすると、ハードルが高すぎて挫折しがちだ。
『新約聖書』の『マタイによる福音書』に「狭き門より入れ」という一節がある。
 これは何か(キリスト教では天国に至ること)をなさんとするとき、簡単な道ではなく、あえて困難な道を選んだほうが自らは鍛えられるという教えだ。
 でも、道行きが困難すぎて歩けなかったなら何にもならない。
 哲学に関しては「広き門から入れ」という心構えでいい。
 哲学書の入門編として私がおすすめしたいのは、エーリック(エーリッヒとも表現される)・フロムの著作だ。
 フロムはドイツ系ユダヤ人であり、アメリカに渡って大学で長く教鞭をとった。
 ユダヤ系ではあるがユダヤ教徒ではなく、キリスト教系の哲学者だと私は思っている。
 フロムの代表作として世界的に知られているのは『自由からの逃走』(1941年)と『愛するということ』(1956年)という2作である。
 とくに私が好きなのは、『愛するということ』のほうだ。
 もう何度再読したか数えきれない。
 フロムの作品は決して易しくはないが、アリストテレスのような古代ギリシャ哲学、カントやヘーゲルといった小難しいドイツ哲学よりは、よほどとっつきやすい。
 日本人には日本の哲学者が書いた本のほうがわかりやすいのではないか、と考える人もいるだろう。だが、日本の哲学者の本も一筋縄ではいかない。
 日本の哲学者というと、西田幾多郎さんと和辻哲郎さんの名前が挙がる。
 彼らの本は日本人にとってもわかりにくい。
 誤解を恐れずに言うと、日本語が下手なのだ。
 作家の井上ひさしさんの言葉に、次のようなものがある。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことをいっそうゆかいに」
 まさに至言である。
 哲学書も「むずかしいことをやさしく」書くべきなのだ。
 ところが、日本の哲学者の本は「むずかしいことをよりむずかしく」書いてあるとしか思えない。
 優秀な翻訳者に恵まれたら、むしろ翻訳物の哲学本のほうがわかりやすい。
 哲学書は読むのに時間がかかる。
 もしも読書の目標を立てるなら、月単位ではなく年単位にするべきだ。
 年間5冊も読めたら立派なもの。
 哲学ビギナーは「1年に1冊でもいいから、哲学書を読んでみよう」と気楽に考えてみてはどうか。
 1年に1冊ペースでも5年で5冊、10年で10冊だ。
 30代に10冊の哲学書を読んで人間理解を深めたビジネスパーソンと、1冊も読まなかったビジネスパーソンとでは、地力の差が開いてくる。
 1年1冊ペースでも定期的に哲学書を読んでいると、自分なりの哲学書の読みこなし方がスキルとして会得できる。
 読書も野球のバッティング練習や守備練習と同じようなものであり、数をこなしているうちに上手になるのだ。
 哲学書を読み始めて5年もするとペースが上がり、昔は1年1冊がせいぜいだったのに、1年に2冊くらいは読めるようになる。
 その調子で、仮に10年で15冊の哲学書が読めたとすると、1冊も読んでいない同僚やライバルとは極めて大きな実力差がつくのは明白である。