毎日一緒に食事をしても心地よさを覚えるような相手を強く求めたときが、その人にとっての結婚適齢期なのかもしれない(イラスト:堀江篤史)
東北地方にあるカフェに来ている。飲食店経営者の伊藤裕也さん(仮名、49歳)は約束の時間から30分ほど遅れて来てくれた。1年半前に開業した店がようやく軌道に乗り、営業時間外も仕込みや掃除で多忙を極めているという。
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引き締まった長身で、使い込んだライダースジャケットを身に着けている裕也さん。少しだけ白髪は見えるが、整った顔立ちで肌艶もいい。刑事ドラマに出てくる俳優のような若々しい男性だ。
「ストレスもないし、苦労してないからですよ」
爽やかに笑う裕也さん。結婚をしたのは4年前、同じく初婚の利律子さん(仮名、36歳)と1年半ほど付き合ってから入籍をした。

「好かれそうな自分」を演じる癖がついていた

20代から30代を通して、国内外の職を転々とする風来坊的な生活を送っていた裕也さん。若い頃は「本当の自分は誰にも受け入れてもらえない。自己完結しなくちゃいけない」という気持ちが強かったと振り返る。
「子どもの頃に母親から『90点以下は点じゃない』などと言われ続けた影響かもしれません。親が望むような子にならなくちゃいけない、素の自分は受け入れてもらえない、と思っていました。社会に出ていろんな人に会うことで、その呪縛から抜け出せたのでしょう」
ただし、裕也さんの自己解放ペースは緩やかなものだった。人の前では無理をして「好かれそうな自分」を演じる癖がついてしまい、それに疲れて1人になりたいと願うことの繰り返し。恋人に対してもあけすけに自分を語ることはできなかった。
「そのうえに、いい夫やいい父親になるなんて不可能です。結婚する気は長らくありませんでした」
1人になりたいと望む一方で寂しがりの側面もある裕也さん。飲食が好きで、とくに夕食は誰かと共有したい。酒場で「いい女の子」がいると話しかけ、仲良くなり、そのまま交際に至ることも少なくなかった。
「いい加減に付き合っては別れていたと今では反省しています。どの女性とも最終的には結婚するのかしないのかという話になり、私が『どっちでもいい』と言うと、相手から『どっちでもいいなら結婚しよう』と返され、それは気が進まないので同棲のままでもいいじゃんと思ってしまい……」

きっかけはある男友達との会食

軽やかな印象を受ける裕也さんだが、自分の家族を作ることには拒絶反応を示していたのだ。親しい友人にその理由を話すと、こんな指摘をされた。
「いい夫になる自信がない? いい加減な夫でも構わないと思うよ。裕也さんはいろいろ寛容なのに、その点だけはお堅いよね」
裕也さんが変わることができたのは、この友人のおかげではなく、後に結婚する利律子さんのおかげでもない。ある男友達との会食に嫌気がさしたことがきっかけだった。
40歳になったころに地元に戻り、格闘技の道場を経営しながら食品会社でアルバイトをする生活に入った裕也さん。仕事のほかはとくにやることがない。その男友達と、毎日のように夕食に行っていた。
「夕方になると電話がかかって来て、『今日どう?』と誘われました。バツイチの人だったので、『結婚なんかしないほうがいいよ』とよく言っていましたね。そうなのかな、とは思いましたが、彼とずっとメシを食い続ける人生は嫌だなと思ったんです」
その男友達には申し訳ないが、素直な感想だと思う。友達とパートナーは異なるのだ。毎日一緒に食事をしても心地よさを覚えるような相手を強く求めたときが、その人にとっての結婚適齢期なのかもしれない。
友達とベッタリの毎日に嫌気がさすと同時に、裕也さんは自己嫌悪も高まった。振り返ると、30代は自分のことしか考えず、恋人を含めた他人の気持ちがわかっていなかった。今度こそ変わりたい。次に出会う女性とはいい加減な付き合いをせず、人生を一緒に歩みたい。
裕也さんは30歳のころからある格闘技に打ち込んでいて、42歳のときに地元で道場を開いた。利律子さんはその道場に通って来た1人だ。
「でも、彼女はすぐに仕事が忙しくなってあまり来なくなりました。みんなで飲みに行ったりしてすでに彼女のことが好きになっていたので、『もう練習に来るな。オレは生徒に手を出したくないから』と伝えて嫌な顔をされましたね(笑)」
付き合ってみると、利律子さんは裕也さんと似ていた。感じがよくて寛大そうに見えるが、実は他人を信用せず、将来は好きなお酒を並べた酒場を1人で経営する夢を持っていた。裕也さん以上に結婚願望がない女性だったのだ。
裕也さんは誠意を示し続け、2年後にようやく結婚に至った。いま、裕也さんはかつて経験したことのない安らぎを感じている。
「いい夫になろうとはまったく思っていません。彼女からも求められないし、私も彼女に『いい妻』を強いることはしません。一緒に夕飯を食べて酒を飲んでくれればそれでいいんですよ。店を始めたのは結婚した後のことです。彼女が嫌がったら諦めてサラリーマンになろうと思っていました。でも、幸いなことに『いいんじゃない?』と認めてくれました。いずれは彼女も会社を辞めて手伝ってくれる予定です」

結婚は、してみたらいいことしかなかった

一人暮らしが長かった裕也さんは家事も一通りできる。結婚当初は料理や洗濯をよくやっていた。店が忙しくなってきた現在は、利律子さんのほうが多く分担してくれている。とくに話し合ったわけではなく、なんとなくそうなったのだ。日常的に親しく会話ができている夫婦であれば明確な役割分担などは不要なのだろう。
かつては酒場で女性に話しかけて親しくなることが多かった裕也さん。今はまったく「フラフラ」しなくなったと断言する。外食も裕也さん以上に酒好きの利律子さんと一緒に行くのがいちばん楽しいからだ。家でも外でも、その日にあったことを話しながら食事をする。利律子さんのほうも「こんなに長い間一緒にいても普通の自分でいられる相手は初めて」と言ってくれている。
「私の女は嫁だけです。それがとても楽ですね。女性関係にエネルギーを使うよりも、店の運営に集中したいので。結婚していると社会的にもちゃんとしているように見られるのは経営者として得をしています。あんなに避けていた結婚ですが、してみたらいいことしかなかった。結婚のよさにようやく気づきました」
以前はまったく子どもが欲しくなかった裕也さん。現在の年齢になって、「いてもいいかな」と考え始めている。一方で、利律子さんのほうは心の準備ができていないらしい。避妊を続けている状態だ。裕也さんもとくに不満はない。
「妹夫婦には子どもがいるので、両親には孫の顔はそっちで見てもらっています。長男だから跡取りを残さなくちゃという気持ちはありません」
裕也さんが自然体で過ごせるようになったのはやはり利律子さんの存在が大きいのではないだろうか。そう問うと、裕也さんはクールな口調に戻って自己分析をした。
「いえ。いい加減な付き合いを繰り返していた自分に嫌気がさして、次に付き合う女性は幸せにしたいぞ、と思ったタイミングで彼女と出会ったにすぎません。やはり私は自分勝手なのです」
自分の本当の欲求を素直に見つめて、周囲と折り合いをつけながら実現していくのが大人だと筆者は思う。誠意を尽くして利律子さんと結ばれ、今でも仲良く暮らしている裕也さん。40歳を過ぎて初めて大人になったのだろう。そんな「自分勝手」ならば大いに許される気がする。