5月10日で「グリーン車50周年」 旧一等車ではなく二等車が引き継がれたナゾ
定員十数人の展望車内は、白布がかけられたソファが並び、列車ボーイと呼ばれた給仕員が乗客にきめ細かなサービスを提供した。
車内冷房も、50年代頃までは一等車、一等寝台車、食堂車のみだった。ちなみに、展望デッキは、主に要人が駅での見送りに応えるために使われ、実際に高速走行中の景色を楽しむ客はあまりいなかったといわれる》(編集部注:全角洋数字を半角に改めるなどした)
新幹線「のぞみ」でおなじみのN700系だと、グリーン車の座席数は1車両につき最大68席。普通席の最大100席に比べれば相当に余裕があるが、昔の一等展望車は十数人というから、この1点だけでも差が分かるというものだ。
前出の鉄道ライター氏によると、「なぜグリーン車は、旧一等車ではなく旧二等車のレベルを引き継いだのか」という問題については、諸説が入り乱れているのが現状だ。しかしながら、大まかに言って2つの説があるという。
「その前に推移を確認しておきましょう。一等車の廃止は、太平洋戦争における戦局悪化が端緒でした。東海道本線の特急列車『燕』ですと、1943(昭和18)年に一等展望車の運行が中止されます。戦後を迎えても、占領軍であるGHQが一等車や皇室用のお召し列車の車両など豪華車両を接収、『連合軍専用列車』として日本国内の移動に使用します。戦中戦後の混乱期を必死に生き抜こうとする日本人にとっても、一等車どころではありませんでした」
しかしながら次第に復興が進んでいく。1950(昭和25)年になると、東海道本線の特急列車は戦前の水準まで復活を遂げた。当時の首相は吉田茂(1878~1967)。6月に朝鮮戦争が勃発し、8月には警察予備隊(現・自衛隊)が発足した。
作家の内田百輭(1889~1971)は、この年の10月に特急「はと」の一等車に乗車。東京―大阪間の移動を『特別阿房列車』の題で記した。この抱腹絶倒の旅行記は『第一阿房列車』(新潮文庫)に収録されている。
「しかし、戦後復興の進捗は、交通手段を多様化させます。例えば百輭が『はと』の一等車に乗った翌年、1951(昭和26)年に日本航空が設立されました。『もく星号』が東京・羽田―大阪・伊丹―福岡・板付の定期運行を開始。従来なら一等車に乗車していた名士や富裕層、芸能人が、飛行機を選ぶようになっていきます」(同・鉄道ライター)
復興は庶民にも出張や観光旅行のニーズを生む。国鉄も一握りの特権階級にサービスするより、圧倒的多数である一般市民の要望に応えるほうが経済合理性に合致する。
戦後の国鉄は貨物も含め、何よりも大量輸送が求められた時代だった。飛行機との競争に負けたことも加わって、一等車が廃止されたというのが1つ目の説だ。
2011年に「旧一等車」も復活
1954(昭和29)年から1973(昭和48)年まで、日本経済は飛躍的な成長を持続させた。これは後に「高度経済成長」と呼ばれる。
1956(昭和31)年度の経済白書には「もはや戦後ではない」と記され、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれた。皇太子ご成婚=ミッチーブームは1958(昭和33)年に始まり、マスメディアの発達に寄与。遂に日本にも大衆社会が到来した。
「百科事典の『日本大百科全書:ニッポニカ』(小学館)でグリーン車の項目を見ると、鉄道の等級制を『階級社会の名残』と批判的に記述し、『グリーン車は純然たる追加的サービスであり、その性質は大きく異なる』と指摘しています。一等や二等車は、そもそも運賃に差がありましたが、1969(昭和44)年に誕生したグリーン車の運賃自体は、普通席と同じです」(同・鉄道ライター)
ここから2つ目の説が導き出される。国鉄は公共交通機関として、グリーン車の導入を契機に利用客へ対する差別的な運賃体系を是正した、というものだ。
三等級制でも二等級制でも、かつては運賃自体に明確な差があった。これは金持ちと貧乏人の乗客を差別することになる。
そもそも国鉄は特殊法人であって民間企業ではない。民間以上の厳密な法令遵守が求められる。こうした点を論拠とし、一等車を“非民主的であり、特権階級を優遇する過去の遺物”と断罪する層は、決して少数派ではなかった。
一方、グリーン車の場合、運賃自体は普通車と全く同じだ。そしてグリーン料金は、あくまでも“追加的サービス”の対価という位置づけになっている。これは、それほど非民主的ではないという解釈が成り立つ。
何よりも一等と三等の差は凄まじいものがあったが、グリーン車と普通車の差は相当に縮まったことが大きかったのかもしれない。
「日本人も昭和40年代以降、自分たちの生活水準を『中の中』と認識する国民が多数派を占めるようになります。これを論拠として70年代から、自分たちの国は『一億総中流社会』であるという認識が広まりました。『みんな一緒という社会に、一等、二等、三等は相応しくない。グリーン車と普通車の2種類くらいでちょうどいい』と考えたのかもしれません」(同・鉄道ライター)
1985(昭和60)年にプラザ合意が発表。当時の首相は中曽根康弘(100)だったが、これを契機に翌年からバブル景気が始まった。その一方で1989(昭和64)年1月7日に昭和天皇(1901~1989)が崩御。翌8日から平成がスタートした。
1989(平成元)年10月には、三菱地所がアメリカ・ニューヨークのロックフェラーセンターを約2200億円で買収。世界に「ジャパンマネー」の威力を見せつけた。
しかし、“驕る平家は久しからず”だった。1990(平成2)年3月に大蔵省は「土地関連融資の抑制について」を通達。翌年から景気は後退局面に転じ、“平成不況”が猛威を振った。いわゆるバブル崩壊だ。
就職雑誌「就職ジャーナル」(リクルート)は、1992(平成4)年11月号で「就職氷河期」という造語を提唱。生活保護の受給世帯も一気に増加へ転じていく。2005(平成17)年2月、朝日新聞は「生活保護、100万世帯超す 高齢化響く、10年で6割増」と報じた。当時の首相は小泉純一郎(77)だった。
《生活保護受給世帯・受給者は、石油危機後の80年代半ばから減り続けていたが、世帯数では92年度の58万6千世帯、受給者数では95年度の88万2千人で底を打ち、その後は急増。03年度平均では世帯数が過去最多の94万1千世帯に、受給者数も134万4千人となり、その後も増え続け、世帯数では10年間で1・68倍になった》
2006(平成18)年の「新語・流行語大賞」に「格差社会」がランクインし、富裕層と貧困層の対比が日本社会の論点となる。
富の再分配を巡る議論の真っ最中だった2011(平成23)年、東北新幹線の「はやぶさ」で「グランクラス」が営業を開始する。
グリーン車より上位である“スーパーグリーン車”という位置づけだったが、要するに旧一等車が復活を果たしたのだ。
興味深いことに、「日本人の相当数が金持ち」だったバブル時代に旧一等車は復活しなかった。富裕層と貧困層の差が著しい時代になって鳴り物入りでデビューを果たしたのだ。戦前の階級社会への回帰という観点が成立するのか否かも含め、なかなか興味深い。
「グランクラスを富裕層優遇の復活と見なし、現代ニッポンにおける格差社会の象徴と批判することは可能でしょう。その一方で、人間はいつの時代でも、豪華な旅行に憧れを抱くものだと肯定することもできます。とにもかくにも豪華な内装に、飛行機のファーストクラスと肩を並べる快適性を誇る座席。軽食が提供され、アルコールを含めてドリンクは飲み放題です。グランクラスの旅に憧れを抱く人は、決して少なくないでしょう」(同・鉄道ライター)
近年は私鉄も含め通勤列車にも有料着席サービスが拡充し、今後もグリーン車の多様性は増していくと考えられる。鉄道ライター氏は「新幹線での復活を筆頭として、今後は特急列車などにグリーン個室が拡充していくか、個人的に注目しています」と言う。
週刊新潮WEB取材班
2019年5月10日 掲載
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