私は極端な断捨離論者ではありませんが、やはりモノを減らし、あまり買わない生活は、自由をもたらしてくれる発想だと感じています

モノを減らせば時間が増える

以前も書いたことですが、なるべくモノを持たない、モノを減らすということは、可処分時間を増やすことにつながります。たとえば自宅に衣服が多ければ、衣替えに時間がかかり、クリーニングに出す点数も増えるでしょう。

部屋に小物類が多ければ、ホコリをはたくなど掃除をしなければならないし、文具や情報機器類が多ければ、充電したり、外出時にカバンの中に入れたりするモノも増えます。モノが増えればそれを探す時間も増え、片付ける時間も増えるのです。

1日に10分、そうした作業が発生するとすれば、年間60時間、30年で75日分の時間が奪われ、その時間を使ってできたはずのことができなくなります。しかし、モノが少なければその分、保管する、探す、取り出す、掃除する、片付ける、という手間が不要になります。

私の場合、人と会うのは特定の日に集中させ、何の予定もない日を増やすようにしています。すると、誰にも会わないので着る服は何でもよく、たとえば1週間近く同じ服で過ごすことがあります。そうなると、新しい服や靴などはほとんど不要になります。ちょっと極端ですか?笑

知識があれば、モノは減らせる

たとえば、洗顔フォームは皮膚の油脂を必要以上に取り去るから、あまり良くないということをご存知でしょうか。整髪剤も、実は髪を傷めてしまうそうです。ブルーベリーは、目の健康に効果があるという医学的根拠はありません。ヒアルロン酸なども同じです。

そうやって知識が増えれば、余計なモノを買う場面が減ります。つまり知識をつけることで、モノを減らせるのです。

モノを買うのに知性はいらないが、捨てるには必要

モノを買うのは簡単です。モノはたいていの場合、お金さえ払えば誰でも買うことができます。

新しい服が欲しいと思ったら、ショップへ行ってお金を払うだけ。小学生でもできる簡単な行為で、そこに知性は必要ありません。

しかし、モノを捨てるには知性が必要です。もっと具体的に言うと、「これは必要か、そうでないか」を考え判断し、「あとで使うか、もう使わないか」と未来を想像しようとする、脳を使う行為だという意味です。

逆に「捨てられない」という人は、将来使うことになるかどうかを想像するのが面倒くさい、要・不要を判断するのが面倒くさい、捨てる作業も面倒くさい……といったように、知的に怠惰な可能性があります。

つまり、考えるのが面倒くさいから「まあいいや」「いつか使うかも」と何年もそのままにして、家の中に不要なモノが増えていくのです。「稼ぎ力の差は思考力の差」と考えると、家の中が不要なモノで溢れかえっている人ほど貧しいという現象は、うなづけるものがあります。

モノは後悔を生むことも。無駄買いを減らせば、生活の満足度が上がる

さらにモノを買うことは、より多くの後悔を生み出すことがあります。「こんなモノ買うんじゃなかった」「思ったより使いにくい」「無駄だった」「すぐ壊れた」「スペースを取って邪魔になる」……などです。

もちろん、サービスでも残念な気分になることはありますが、サービスの場合は相手が人間ですから、自分から働きかけてその後悔を未然に防いだり、最小限に抑えたりすることもできます。

たとえば、美容院に行ってスタイリストの腕がイマイチだったとしても、「ここをこうして」などと細かく指示を出し、よりイメージに近い髪型にしようと、ある程度は自分で満足度のコントロールが可能でしょう。

しかしモノの場合、自分で使い方を変えたり、効用を変えたりすることは基本的にできません。靴を買ったら履くしかできないし、ポットを買ったらお湯を沸かすしかありません。そこに自らコントロールできる余地は小さいでしょう。

つまりモノをあまり買わない、保有しないというのは、後悔する場面を減らし、満足度の高い生活を構成する1つの要素と言えなくもありません。ちょっとこじつけっぽいですが。
(文:午堂 登紀雄(マネーガイド))