女性誌『Suits WOMAN』で注目を集めた「貧困女子」。これは普通の毎日を送っていたはずが、気がつけば“貧困”と言われる状態になってしまった女性たちのエピソードです 。
千葉日花里さん(仮名・34歳・アルバイト)は、半年前まで同棲していた彼が経営する会社で、PRの仕事をしていました。
美貌の日花里さんは、2年の友人期間を経て、彼と交際。同棲1年が経過し、彼のモラハラが激化。家を出ることになり、さらに仕事を失うというダブルパンチに見舞われています。
「彼は10歳年上で、バツ2です。私が夜の仕事をしているときに知り合いました。出会った2年間はただの飲み友達で、明らかに私のことをバカにしていました。その後、私にアメリカ留学の経験があるとわかると、態度をコロッと変えて、自分の会社に入らないかと言ってきたのです」
日花里さんは茨城県出身。幼いころは母子家庭だったが、7歳の時に母親が裕福な男性と再婚します。
「小さいころから父親と母親がケンカして殴り合うのを見ていたから、大人が全然信用できない。母親の再婚相手も絶対に殴ると思っていた。でも、再婚相手の義父は優しかったですね。こいつなら信用できるかと安心していた矢先、私が13歳の時に、変なことをしてきたんです」
母親がいないときを狙い、日花里さんがお風呂を入っているところを、偶然を装って見に来たり、生理になっていると、そのことについて「女の子の日だね」などと言うようになったとか。
「体を触られるなど、直接的に性的なことは全くされていませんが、とにかくキモい。家にいるのが嫌になり、地元の友達の家に入り浸っていました。中学2~3年のころから、ほとんど家に寄り付かなかったかな。親が仕事に行ったすきに家に行き、夜は友達の家に泊まるという生活。リズムはボロボロですが、私の実の父親が有名国立大学卒業のエンジニアなので、その血を引いたのか、地頭がよかった。そこそこの高校に合格して、途中からアメリカの高校に行きました」
留学費用は母親の再婚相手が支払い、現地の大学を卒業。それから20歳までの3年間を、現地のアート系の専門学校などに行って過ごします。
「日本にいるのが窮屈だったから、このときは私の人生史上最高の時期でした。勉強もやる気出して頑張ったのですが、日本の学校じゃないし、専門学校みたいなところだし、学歴としてカウントされない。日本で転職を繰り返して思いましたが、留学って、よっぽど才能や能力がない限り、協調性がないという評価だけで終わってしまうんですよね」
交際していた彼にくっついて、日本に帰ってきたのは、21歳の時だった
現地で付き合っていた料理人の彼が帰国するタイミングで、引き上げることにします。
「あのままアメリカにいても意味がないことを感じました。音楽もアートもダンスも好きだけど、仕事にするには特別な才能とコネと根性がないとダメ。現地のガイドや飲食店の仕事も限りがあるし、帰国した方がいいと思ったんです」
帰国後は、結婚式専門のカメラマンの助手になります。
「写真も勉強していたので、アート系の仕事がしたくて、カメラマンやアーティストのアシスタントになったのですが、そこそこ仕事しているアーティストの現場って、めっちゃ厳しい。『本気でフォトグラフファーになる覚悟があるの?』と聞かれ、2時間でクビになったこともありました。
弟子って、ほめて伸ばさないとだめだと思う。あんなに切り捨てるようなことを言われたことなかったです。あの時はお金もなくて病みました。友達の実家に居候できたので、家賃を払わなくてよかったのが幸いしました。結局、結婚式専門のカメラマンの助手になったのですが、給料は立ちっぱなしで日給1万円だし、土日がつぶれて何もできない。はっきり言って、キレイじゃない女性が悦に入っている姿を撮影するのもつらかった。それに、平日も仕事しないと生活していけないので、やめました」
東京で生活するのは無理だと感じ、一時的に地元に帰ります。
「中学時代の先輩や、元彼と話していても、一応首都圏なのに、考え方が古くてびっくりしました。まだ22歳なのに、友達がみんなママになっていたのも衝撃的でした。義父に結婚を進められ、『結婚したらオマエは楽できるぞ』って言われたんですよね。女は結婚したら仕事を辞めるという考え方にゾッとして、再び東京に行くことにしたんです」
留学していたのは、西海岸エリア。日本のIT企業の拠点でアルバイトとして働いていたこともあるが、仕事は続かなかった。
私は世界を見ていたのに、評価されない……ジレ